さるっちの秘密 第4話(完)



「あの……」



「はい?」



 あぶみさんに誘われるままに事務所に入ると、そこには梅さんの言ったとおり社長も奥さんもいなかった。



 ガランとした事務所内。



 事務所の中は、僕と、あぶみさんと、二人きり。……いや別に変なこと考えてるわけじゃなく! ただ、この前のことが、何となく頭をよぎるだけだ。



 僕が声をかけ振り返るあぶみさんは、何の屈託もなかった。まるで、この前のことなんてすっかり忘れてしまったみたいに。何もなかったかのように。



 それはやっぱり、さっき出て行った猪口さんのお陰なんだろうか? あぶみさんの素直な笑顔に、そう思った。



 婚約者と会ってたんだものな、機嫌が良くたっておかしくないし、ていうか良くなきゃおかしいだろう。だから、別にあぶみさんの機嫌が良くたって、それは当然のことで……。



「…悟さん?」

 

 何も言い出そうとしない僕に、不思議そうにあぶみさんは顔を覗かせてきた。



「……あ、いえ、その……」



なんか……僕、イラついてないか?



 イラつく理由なんてないはずなのに。



 笑顔で僕を見るあぶみさんを見て、どうして。

 

「あ、明けましておめでとうございます」



 けどそれを顔に出すわけにも行かず、僕は愛想笑いを浮かべ、とりあえず頭を下げた。



「明けましておめでとうございます」



あぶみさんも釣られて頭を下げる。



あ〜っ! 別にこんなこといいたいわけじゃないんだってのに!



「待っててくださいね。今、お茶を淹れますから」



 あぶみさんがにこりと微笑み、またその微笑みに僕は嫌な感じを受けながら、「はい…」ととりあえず頷いた。



「……」



 イラつきや嫌な感じは、収まるどころか増大していく一方だった。



 どうしてこんな感情になるのか、自分でも良く判らない。って言うより、今の自分の感情そのものが、どんなものなのかさえ実のところ、はっきりと判っちゃいなかった。



けど、台所に向かって歩いていくあぶみさんの後姿に、もどかしさみたいなものを感じるのは、僕の気のせいなんだろうか?



 僕はあぶみさんに、謝りにきた……それだけの筈だろ?



「あ、あぶみさん!」



 渡会家に繋がるドアノブに、あぶみさんが手をかける直前に、僕はあぶみさんを止めた。「はい?」あぶみさんはもう一度振り返る。



「あの……」



 僕が自分でも何を言おうとしてるのかわからない言葉を、言おうとした、そのとき。



「あれー? ここに来てないよ、父さんたち」



「おっかしぃなぁ、家に集まるんじゃなかったの?」



 ドアの奥から、駿平くんとひびきくんの声が、すぐ近くから聞こえてきた。



「先行ってるぞ、っていうからてっきりここだと思ってたのになぁ……どうする、ひびきさん?」



 駿平くんたちは僕たちがここにいる、ということに気付いていない様子で、ちょっと困ってるような言い方をしていた。自然とあぶみさんと僕はドアに近づき、悪いと思いつつも聞き耳を立ててしまう。



「どうするも何も。いないんだから、仕方ないべ? 第一、あんた何処に行くか、聞かなかったでないの」



 ひびきくんの声はちょっと不満そうだった。



「仕方ないって言ったってさー。……はい、そうですオレが悪かったです! そんな目で見ないでくれよー」



「……」式終了直後にして、早速駿平くんはひびきくんにやり込められているらしい。相変わらず情けない男だ。



何であんな男にひびきくんは惚れたんだか……と思っていると、となりではあぶみさんがくすくすと小さく笑っていた。「ほんと、駿平くんてひびきちゃんに弱いわね」嬉しそうに、けど僕にしか聞こえないくらいの小さな声で、囁く。



「ほんと頼りにならないんだから、もう。あんた、夏には父親なんだからね? もっとしっかりしてもらわないと、困るわ」



「うー…はい、判りました……」



 益々やり込められている駿平くんに、あぶみさんの偲び笑いも見ているこっちがひやひやしていくものになっていく。肩を大きく震わせて、そんなに我慢しなくてもいいのに、ってなくらいにまで。



 このドアを開けて、ちょっとくらいからかってやろうか? 僕はドアノブに手を伸ばした。



「誰もいないね…」



 と、ひびきくんの声が、急に神妙におとなしくなった。僕はその声に、思わずノブから手を離してしまう。



「おねえちゃんとか、この時間帯ならいる筈なんだけどね。誰もいないってのは珍しいわ」



「あ、そう言えば……買い物でも行ったんじゃないの? この家でひびきさんと二人きり、って言うのはかなり久し振りだね」



 二人きりじゃないぞ。突っ込みたいけどとりあえず抑える。



「そうかな……って、え? ちょっと、あんたっ……」



 ひびきくんの声がちょっと慌てたものになり、そして、止まった。「……?」僕とあぶみさんは急に静かになったドアの奥に、顔を見合わせる。



「……バカ……」



 沈黙が終わると、ひびきくんの声色が、すっかり変わっていた。「なんてこと……すんのさ。こんなとこで」



その声に、「!?」再び僕らは顔を見合わせる。今、一体何があったって言うんだ!? あぶみさんも目をぱちくりさせていた。



「へへっ。いいでしょ? どうせ誰もいないんだし」



 駿平くんの嬉しそうな声。



「バカ!」



 言いながら、あんまり怒ってなさそうなひびきくんの声。



 見ると、あぶみさんの頬が真っ赤になっていた。多分、今二人が何をしていたのか、想像してしまったんだろう。僕にだって、それは想像に難くはない。……考えないけれど。



「んもう……。とにかく! 父さんたち、探さなきゃいけないんだから。一旦、外、出よう。何処行ったか知ってる人がいるかもしれないし」



「はーい♪」



 パタパタパタ……足音が遠ざかっていき、そして、聞こえなくなった。



 家の中(というより事務所の中、か?)は、急にシンと静まり返る。



 偶然とはいえ、とんでもないことを聞いてしまって、僕もあぶみさんも、何を言っていいやらすぐには言葉が出てこなかった。



 そりゃ、あの二人はまだ籍を入れたわけじゃないけど夫婦同然、というのは確かだ。



 駿平くんの気持ちだって判らないわけじゃない。僕だって、男だしな。



 もし一人で聞いてしまったのなら、ただ何となく歯がゆいだけで終わっただろうけど…。



「……驚いたわ……」



 はぁ、と一つため息をつき、あぶみさんが言った。まだ、驚きから抜けきれないような顔で。



「判っていたつもりで、判ってなかったのね。あの二人のこと……」



「あぶみさん?」



 僕が声をかけると、あぶみさんは僕の視線から避けるように顔を少し動かした。「?」



「ちょっと考えれば、すぐに判りそうなものなんですよね。駿平くんは男だし、ひびきちゃんだって女だってこと」



 ? 照れ笑いを浮かべながら言うあぶみさんに、「はぁ」としか僕は返せない。



「……それも、ひびきちゃんのおなかにはもう、子供までいるって言うのに。それなのに、あたし、まだ心の何処かではあの二人のこと、子供みたいに扱ってた」



「そりゃ…仕方ないかもしれないですよ。だって、ひびきくんはやっぱりあぶみさんの妹だし」



「でも、それは年の差だけの話しだわ。……ひびきちゃんは、あたしなんかよりずっと……もう、女なんだなって、今思ったんです。なんか、……ちょっと、羨ましい」



 どこか淋しげに、あぶみさんは続けた。気のせいだろうか。あぶみさんは、僕を見ないで話している気がするんだけど。



 それに、何であぶみさんがそんなこと言うんだろう。あぶみさんには、猪口さんて言う立派な婚約者がいるって言うのに。



「あぶみさんにだって、猪口さんがおられるじゃないですか。そんなこと言ったら、猪口さんが可哀相ですよ。あんなに立派な人がいるって言うのに」



 僕が言うと、あぶみさんはやっと僕に視線を合わせて、けど何となく淋しげな表情はそのままにして、僕を睨んだ。



「猪口さん……立派な人、ですか?」



「そうですよ」



「ほんとに、そう思われるんですか?」



「え……あぶみさん?」



「……確かに、あの人は立派な人だわ。あたしなんかには、つりあいも取れないくらい。でも、あのひとは駿平くんみたいにはなれない人だと、あたしは思うんです」



「駿平くんみたい?」



「ひびきちゃんにとっての、って言う意味でですけど。そこにいるのが当たり前とでも言うのかな……いい意味で、空気みたいな。いつも自然にそこにいてくれて、それが当たり前で、だから心地よくて……そんな感じで。立派、なんてどうだっていいんです。人からどう思われたって、そんなこと構わないんです。ただ、自分を素直に、純粋に見ていてくれる。そんな感じな人では、あの人は違うと思うんです」



「……それは、どういう意味なんですか?」



 自分の婚約者を否定するような言い方をするあぶみさん。何をあぶみさんが言いたいのか、僕には判る気がして、判らない。



 あぶみさんがじっと僕を見つめる。これ以上、自分に言わせないでくれとでも言いたげに。



「……っ!」



 熱さえこもったようなその視線に、今度は僕があぶみさんから目を逸らしてしまった。



 だって、これじゃまるで今のあぶみさんは―――。



「―――今日、あの人に言いました。この話しを、考え直させてください、って」



「えっ!?」僕が何も言い出さないでいると、あぶみさんは諦めたような口調で言い、顔をうつむかせた。



「あたしではあの人は不釣合いだと思うし、あの人にとってあたしはひびきちゃんのようにはなれないと思って。ずっと考えてきたんです」



―――『「私はまだ、諦めていませんから」』、というあの時の猪口さんの台詞は、そういう意味だったのか! 僕はやっと判った。あの困惑めいた表情は、そういう訳だったのか。



じゃああの時猪口さんは、あぶみさんに別れを打ち明けられてた、って言うのか?



「で、でもそんな―――どうしてそんないい話しを……って、まさか」



 もしかしてあのキス(覚えちゃいないが)もそれに関係していたりして? そんな考えがふっと頭をよぎり、僕は青ざめる。



「いいえ。違います」青ざめる僕を見てあぶみさんは僕が何を考えたのか気付いたらしく、顔を横に振った。



「ほんとに、ずっと前から考えていたんです。ただ、先延ばしにしつづけていただけで―――。 悟さんの気になさることじゃないわ」



「で、でも――すいませんでした! あの夜は―――すっかり、酔っ払っていて」



 僕は頭を下げる。もともと、このためにここに来たんだから。って言うより、僕は謝らなきゃなんか気が済まなかった。



―――あぶみさん、幾ら聞いても教えてくれなかった。悟さんが何したのか、幾ら聞いても首を横に振るだけで。



ついさっきの、みっちゃんの言葉が蘇る。



――――泣かせるほどのことをされたくせに、悟さんをかばってたんだよ? 



 もしかしたら、それは? なんて都合のいい考えが浮かんでくる。でも、今それは僕が考えていいことじゃない。



 直接的には、僕のせいであぶみさんが猪口さんとの話を断った、というわけではないみたいだ。けど、それでも。



 ここは、謝らなきゃ気がすまないんだ!



「謝らないで下さい。別に、もういいんですから」



 あぶみさんは困ったように僕の頭を上げさせようとした。なんか含みのあるような、そんな言葉で。「―――それに」



「……あたし、実はすぐに抵抗できなかったんです。すぐに突き押して逃げることも出来たのに、すぐにはそうしなかったんです」



「―――あぶみさん?」



 僕は顔を上げる。あぶみさんは、益々困ったような顔をしていた。なんて自分の感情を表現していいのか、判らないような……。



 そんな、女の顔をしていた。



 困り果てながらも、にこりと、笑ってみせて。



 「だから……もういいんです。悟さんも、気にしないで下さい」



  ―――え? それって、もしかして?



 僕は改めてあぶみさんの顔を見た。



 僅かに赤らんだ顔、僅かではあるけど潤んだ瞳……僕の視線に気付いたのか、「あっ、あたし、お茶淹れてきますね」とあぶみさんは慌てて僕から背を向けた。



「気にしないなんて、出来ませんよ」



 たまらなくなって、僕は思わず言ってしまう。また、ぴたりとあぶみさんの足が止まる。



 僕は頭を掻きながら、わざと顔を横に向けた。



 でないと、ずっとあぶみさんの後姿を見つめていそうな気がしてならなかったから。



 あぶみさんの言っている意味が、僕には判らない気がして、判る気がして。わざと理解しがたいような言い方をして―――これが、女心ってもんなのか?



「気にしないなんて、そんなこと無理です」



 あぶみさんは振り返らない。「……そう、ですか」



「だから、これは僕たちだけの秘密、ってことにしませんか?」



「――秘密?」顔だけをこちらに向けて、怪訝そうにあぶみさんはいう。



「ま。誰にも話せるような話じゃ、少なくともないですけど。でも、そうしたほうがお互い気が楽だし。―――空気のように、自然に。二人だけの秘密にしちゃいませんか?」



「……!」僕の言葉に、あぶみさんの表情が、まさに『輝いた』。



 女としての美しさを持ったその顔。



 もしかしたらそのとき、僕は初めてあぶみさんをこの時、『ひびきくんの姉』ではなくて、『一人の女の人』として捕らえたのかもしれない。



 けど―――まだまだ、僕にはそんな風に思えると言うか、急に自分の気持ちを切り替えることなんて出来やしないけど。



 でも、いつか……それにしても、ほんとに、女心ってのは。



「それ、いいわね」



 あぶみさんは子供みたいに可愛らしく、僕に言った。



 僕たちだけの秘密。



「待っててくださいね。今、一番美味しいお茶を淹れてあげますから!」



 パタパタと、あぶみさんは台所に向かっていった。



 その後姿を見ながら、僕は自分の口に手を当ててみた。



 ついこの前、あぶみさんとしてしまったっていうキスの感触なんて、残ってる筈もなかったけど。



 けど―――、どうしてだろう、なんか、唇は熱くて、疼いた。



「……」



 ―――あたし、実はすぐに抵抗できなかったんです。すぐに突き押して逃げることも出来たのに、すぐにはそうしなかったんです――



 さっきの、あぶみさんの言葉……。



―――参ったなぁ、僕は変な意味でそう思った。髪を掻きながら、軽く息をつく。



 僕って、こんな奴だったか?



 こんな自分を、もし駿平くんにでも見られたら、多分大笑いされるに違いない。



 でも、そんなこと構わない、と思う自分も何処かにいて。



 事務所に備え付けられてあるソファに、僕は腰掛けた。



 ―――まぁ、いいか。僕はもう一度軽く息を吐いた。



こんなもんなのかもしれない、『気持ち』が生まれる瞬間、って言うのは。



ひびきくんの時は、どうだったろう? ―――考えようとして、僕はやめた。もう、ひびき君のことを考えても、仕方ない。



 これは、とりあえずは僕だけの秘密ということにしておこうと思う。



 だって、この年になっていちいち口に出すの、照れくさいじゃないか。



こういうのは、本人の前でだけ、―――言うもんだろ?



「お待たせしました、悟さん!」



<完>

<たこ様からのイメージイラスト(500×550,42.0KB)>

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