さるっちの秘密 第3話



「……」



 その場にいる全員が、何も言い出せなかった。



 ぽろぽろと流れ出すその涙に、まるですべての言葉を奪われているみたいに……。誰も、何も言い出せなかった。



 あぶみさんが、泣いている。―――子供みたいに、隠すこともせず、ただ、泣き声だけは必死に抑えながら……。



「……あぶみさん、部屋にいこ?」



 みっちゃんがそっと近寄り、あぶみさんに声をかける。あぶみさんは小さく、その言葉に頷いたようだった。みっちゃんの差し出した手に、あぶみさんは自分の手を重ねる。そのまま、みっちゃんはあぶみさんを立ち上がらせた。



 あぶみさんは何も言い出そうとはしなかった。そしてそんなあぶみさんの手を取ったみっちゃんも、何も言い出そうとはしなかった。



「あ、あぶみさん!」



 なんて声をかけていいのか判らない。けど、何か言わずにはいられず、僕はあぶみさんを呼び止める。あぶみさんの足が、一瞬、ぴたりと止まった。



「あの……僕……なんと言えばいいか……」



 けど僕の口は、そんな情けない言葉しか出てこない。もっと、何かあぶみさんの涙の収まるような言葉を、かけてやりたいのに。



「―――気にしないで下さい」



 あぶみさんは、涙を拭きながらこちらを見る。無理してるのがわかるくらいの、痛い微笑みを浮かべながら。



「ね? 気にしないで」



「……」みっちゃんが、そんなあぶみさんの言葉に僕に視線を投げかけた。怒ってる風でもなく、呆れてる風でもなく、



 何であぶみさんをこんなに泣かせたの?



 ―――と言う、それは疑問の視線。



 僕はそれ以上、何も言い出せなかった。



「ねぇ、一体あぶみさんに何したの? 僕らが離れたちょっとの間に、何があったって言うの?」



 坂本(商店)さんが、みっちゃんがあぶみさんを連れこの部屋を出て行ったのを確認した後、ぼそっと僕に語りかける。なんだか怒りさえ感じる含みで。



「何かあったっていうか……」



 けど、僕にそんな事説明できる筈がない。



「ねぇ、悟さん?」



 ねちっこく聞いて来る坂本(商店)さんを無視しながら、僕はちょっと考えた。



 あぶみさんの言う通り、すべて信じるなら、寝惚けた僕はたまたまそこにいたあぶみさんに、キスをしたってことになる。



「……」



 信じられない、信じたくないことでもあるけど、でもあの時僕は何かに突き押されて目を覚ました、ってのも確かだし。



 目を覚ました直後に、逃げるように立ち去る足音も、確かに聞いてはいるし。



 それがあぶみさんだといわれれば、―――やっぱりそう考えるのが、普通の考え方なわけで。



―――今時…この年になって、恥ずかしいわよね。けど……あれが、初めての……キスだったんです―――



ほぼ真っ暗闇の中で、打ち明けてくれたあぶみさんの声が蘇る。



 その声には、精一杯の勇気と、それに対しての恥ずかしさと、それに相向かう強さとが、ごちゃまぜになって出されてた。思い返せば、すぐに判るこんなこと。



 けど、僕にはそんなこといわれても判らない、理解できないという心も確かにあって―――。



 夢とごちゃ混ぜにしてあぶみさんと……そうしたのなら、僕はあぶみさんと夢の中のひびきくんと勘違いしていたわけで……。



 真っ赤になって、泣いていたあぶみさん。



 醍醐悟―――久々に、自己嫌悪………。







 ―――翌朝。



 なんかの鳥の鳴き声で、僕は目を覚ました。



あれだけ飲んだにしては珍しく、気持ちはちっとも悪くなく、二日酔いも残っていないようだった。



 ―――肉体的には、爽やかな朝だったと思う。



 けど、目覚めは―――精神的には、最悪だった。



「……」



 散々坂下(商店…いい加減止めようか)さんに「何が遭ったの?」と問い詰められ、けどそれを返せず、坂下さんが諦めるまでほぼ2時間。



 それからいざ眠ろうと思って布団に入っても寝付けず、多分1時間近くはごろごろ寝返りを打ってたと思う。



 時計がないから何時に寝た、なんてそんな事判りゃしないけど。



 それなのに随分すっきりと目覚めてしまった(肉体的には)自分が、なんか嫌で仕方なかった。



 光が差し込む(おそらく東側なんだろう)のふすまを開くと、すぐそこは外だった。窓一枚をはさんだ。



 空を見ると、随分日は高く上がっていた。―――今、何時なんだ?



「おっ。やっと起きたかぁ」



 しばらくそこでボーっとしてると、なんかほんのちょっと前まで聞いていたような気さえする、坂下さんの声が聞こえた。



「おはようございます」



「おはよう。って言うか、もう昼だよ。よく眠ったもんだね」



「昨夜はすいませんでした」



「全くだね。悟さんを置いて仕事に行くわけにも行かないから、僕今日仕事休んじゃったよ、もう」



 坂下さん怒ってるのか? ……んなこと、どうだっていいけど。



 未だボーっとしている精神で、僕は坂下さんに頭を下げた。



「すぐに失礼しますから……あぶみさんとみっちゃんは、まだ?」



「もう二人は帰ったよ」



「え!?」



 さりげなく言う坂下さんの言葉に、僕の意識は猛烈なスピードで鮮明になった。



 帰った……って!



「あぶみさんは君が起きるまで待っていたいみたいな感じだったんだけど、みっちゃん? がなんか無理矢理連れてった感じだったよ。悟さんは? って聞いたら、男なんだから一人で帰ってこれるでしょ、とか冷たく言ってたなぁ」



 ―――……!!



「そ…、そうですか……」



「よっぽどのこと、したんだね、君。僕、渡会牧場との付き合い長いから判るけど、みっちゃんてコは、大抵の事じゃ怒らないよ? 普段は凄く優しい子なのに、なんであそこまで怒るかなーってくらい。ねぇ、誰にも言わないから、教えてくださいよ」



 昨夜の状態がまた戻ってきたみたいに坂下さんはねちねちと聞いて来る。けど、昨夜とはまた別の意味で、僕は坂下さんの相手なんてしてられる余裕はなかった。



「……すいません、僕もう帰ります……」







 ―――坂下さんの家を出て、本当ならすぐにでも、僕は渡会牧場に行くべきだったんだろう。



 けど、僕はどうしてもそこに足を向けられなかった。



 ただでさえ、ひびきくんと駿平くんが婚約だか何だかで出入りしづらくなってきた、っていうのに。



今更、どんな顔をしてあぶみさんに会えるって言うんだ?



 何もなかった風になんて出来やしない。僕はそこまで器用な男じゃない。―――気まずくなるのが、目に見えてる。



 それを押してでも行く理由なんて見つかりはしないし。



 ―――判ってはいるんだ、行かなくちゃいけないってことは。



 けど、今は……今だけは、僕は、やっぱり足を渡会牧場に向けられなかった。



 そんな自分が、情けなかった―――……。







 ―――年は暮れていき、そして新年を迎えて―――…。



 3が日も過ぎた頃、僕はやっと、渡会牧場に足を向けることが出来た。



「……」



 中途半端に時を過ごした分、また違う意味で足が重かったけれど、とにかく僕は駐車場に車をとめた。見慣れない車が一台あったけど、そんなことは気にする暇もない。



 散々考えた、一人で。実家にも戻らず、一人で。



 やっぱ、覚えていよーがいまいが、僕がしたこと、その後の僕の心無い態度にあぶみさんが泣いてしまった。それは事実だ。



 それなら僕はやはり謝らなくてはいけない。



 あの時は情けなくてやり場がなくて、足を向けられなかったけど、もう、それは嫌だ。



 ひびきくんの時のように、曖昧なまま(だったと思う…今では)の自分の態度で、気づいたら他の誰かにかっさらわれていた、なんてのは。



 別にあぶみさんにそんな心をもってるわけじゃなくて……そういうんじゃなくて。―――後で、後悔するような……『これでよかったんだ』と自分を無理矢理納得させるようなことになるのだけは、僕はもう嫌だ、という意味で。



 ―――僕があぶみさんを傷つけてしまったのなら、



 それならやっぱり、僕が謝るしか、筋は通らない。



「いやぁ〜、やっぱいいもんやなぁ。ボクの提案、間違っとらんかったろ?」



 すると、厩舎のほうからほくほくした梅さんと、ケンさんがこちらに向かってきて歩いてきているのが見えた。



 いつもと違って僕は挨拶だけして通り過ぎる気でいた。「あ、悟さん」梅さんがすぐに僕を見つける。「明けましておめでとうな。―――今日はどないしたんや?」



「あ、おめでとうございます。いえ、ちょっと事務所のほうに用があって」



「ふぅん。今行っても社長と奥さんはおらんよ」



「何故です?」



 別に社長と奥さんには用はないけど。



「ひびきちゃんと駿平くんの結婚式に出とったからや。今ごろは駿平くんの両親と一緒に、歓談でもしとるんやないかな」



「結婚式!?」



僕が思わず声を大きくすると、「あ、違う違う」とケンさん。



「結婚式を見立てて、ってことだよ。あの二人は別に式にこだわりなんかもってはいないようだったけど、社長や奥さんはそうもいかないってのが本音だろう? なんてったって娘が嫁ぐってのに、式も何もないじゃ淋しすぎるものな。で、梅ちゃんが知恵を働かせて、ね」



「結婚式……そうですか」



 駿平くんと、ひびきくんの結婚式……。



 梅さんとケンさんの説明を受けて、僕は自分でも不思議なくらい、大して驚きはしなかった。



 ああそうか、ってくらいなもので。



 ひびきくんの妊娠を知ったときに、もう一生分の驚きを使い果たしてしまったからかもしれないけど。



 でも、もっと嫌な気持ちになったり(昨日のあの駿平くんの「キチュしよー」発言の時のように)、気まずさを覚えてもいいものなのに。



 何でこんなに、素直に受け止められるんだろう……。



「あの二人も、なぁ? いつのまにかああなってしまって。大変やで、これから駿平くん。絶対尻に敷かれるに決まってるからな」



「渡会家は女が強い家系だからねぇ」



 梅さんとケンさんは嬉しそうに笑いあった。でも、僕はもうこの話題についていく気にはなれなかった。いや、勿論。ひびきくんには後で、お祝いする気ではいるけど。



 今、僕が用があるのはひびきくんではないんだから。



「あ? あーっ! 悟さんじゃない!」



 僕がいつこの話題から離れ、事務所に向かおうかと考え始めてた頃、また別の方向から声がした。



 そこに顔を向けると、そこにいたのはみっちゃん。僕を指差しながら、仁王立ちしていた。



「何してたのよ。今まで」



 すぐに想像できたことではあったけど、やっぱりみっちゃんは怒っていた。ずかずかとこちらに向かってくる。



「いや、何してたといわれても―――」



「あの日、あぶみさんにせめて一言だって謝りに来たっていいもんじゃないの? それが何よ、こんなに経った後で」



「どうしたんやみっちゃん、血相変えて」



 事情を知らない(当然だ)梅さんは、きょとんとみっちゃんに尋ねる。するとみっちゃんは「梅さんは黙ってて」と一喝した。



「あぶみさん待ってたんだよ、あの日。悟さんが来るの。口には出さなかったけど、絶対そうだよ。それなのに」



 恨みがましく僕を見るみっちゃんに、僕はまた、何も言えなくなった。



 待っててくれた? 僕を? ―――あぶみさんが?



「あぶみさん、幾ら聞いても教えてくれなかった。悟さんが何したのか、幾ら聞いても首を横に振るだけで。泣かせるほどのことをされたくせに、悟さんをかばってたんだよ? それなのに、どうして悟さんは今まで来なかったのよ」



 問い詰めるみっちゃん。けど、僕は何も言えず。みっちゃんはそんな僕を、更に歯がゆそうに見つめ、睨んだ。



「―――でも、もうそんな事、どうだっていいわ。会いにきたんでしょ?行きなさいよ。あぶみさんに、早く言ってあげなよ」



「もしもーし。話がさっぱり見えんけど、ちょっといいかなー」



「何よ、梅さん!」



 梅さんがまた僕たちの中に割り入ってくる。ぎろっとみっちゃんが梅さんを睨んだ。「ひぃっ、怖いがな、みっちゃん」



「あぶみさんに会いにきたんなら、出直したほうがええんちゃうかなと思ってな」



「なんで?」



「先客がおるからや。――ほら」



 梅さんが首をくいっ、と動かした。その先には、見慣れない4WD。「あー」みっちゃんが納得したように声をあげた。



「猪口さんとこのボンボンが、きとるんや」



 猪口さん?



「猪口さんが、来てるんですか?」



「いや、確かめたわけじゃないけど。あの車は猪口さんのやしな。なぁ、ケンさん?」



「ああ、確かにあの車は、そうだね」



 猪口さんて言うと。



 あぶみさんの婚約者の。



「そうですか…」



 自分の足が急にまた重くなるのを、僕は感じていた。



 行っても、仕方ないんじゃないか? という思いが急に湧きあがってくる。



 僕が何をしようと、自分が何をされようと、あぶみさんには婚約者がいる。僕のことなんて、野良犬にかまれた程度のことでしかないんじゃないか? なんて思ってしまう。



 今ごろ、あぶみさんは猪口さんと、楽しげに話してるかもしれないのに。



 そこに、僕が行ってもいいものなのか?



「そうですね…じゃ、僕、出直そうかな」



「悟さん!?」



 動けなくなってしまった僕に、またみっちゃんが声を上げた。



「なに言ってるの? そんなこと言ってたら、悟さんもうあぶみさんに会いづらくなっていく一方じゃない。逃げるの?」



「一体何がどうしたんや、みっちゃん?」



「梅さんは黙ってて! ―――ねぇ、今だけは逃げたら駄目だよ、悟さん。猪口さんが来てるんなら、帰るまで待ってたっていいじゃない。ここで逃げたら、あたし悟さんのこと許せない。ずっと泣き止まなかった

あぶみさんの、原因は悟さんなんでしょ? それなのに、折角きたって言うのに、ここで逃げるなんて、男じゃないよ」



 必死に訴えるみっちゃん。



 でも、僕は謝りにきただけだから――…。



 どうしたらいいか判らなくて、でもその場からも動けない。どうしようか自分でも判らなくなって混乱してた時……、事務所の、ドアが開いた。



 全員の視線が、一気にそこに集まる。当然、僕もそこを見た。



「私はまだ、諦めていませんから」



 開かれたドアの先から、何度か聞いた覚えのある猪口さんの声がした。「また、お邪魔します」猪口さんはそう言って中に向けて頭を下げ、こちらに体を向けた。



見ると、怒っているような、困っているような、複雑な顔を猪口さんはしていた。



 何があったんだ? 僕らがきょとんとしていると、猪口さんは僕らに向けて一礼しただけで、何も言わずにそのまま駐車場に向けて歩いていった。



 そのまま車に乗り込み、走り去っていってしまう。



「なんやったの?」



「さぁ?」



「―――悟さん?」



 ドアの向こうから、声。―――あぶみさんの、声だった。



「どうも」



 我ながら情けないなと思いながらも僕はそう言い、頭を下げた。



 そんな僕に、あぶみさんはにっこり笑い、靴に履き替え、こちらに来た。みっちゃんが僕の背中を軽く、つつく。



「良かった。もういらして下されないかと思ってました。―――お茶をお入れしますから、さ、どうぞ」



 いつものあぶみさんの、笑顔だった。



 僕は誘われるままに、事務所に入った。



<<続きます♪>>

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